平成18年(行ウ)第28号 損害賠償請求事件

原告 北上田 毅外22名

被告 京都市

 

第2準備書面

2007年9月11日

 

京都地方裁判所 第3民事部 合議C係 御中

 

              原告訴訟代理人弁護士 折 田 泰 宏

                    同    坂 和   優

                    同    上 瀧 浩 子

     

<目次>

 第1 本書面の目的

 第2 本件テキスト内容の誤りや不適切な記述について

第3 市内の小中学校で使われている社会・歴史教科書との違いについて

第4 本件テキストの背景にある歴史観について

第5 歴史学者グループの抗議・申入れについて

 

 

 

第1 本書面の目的

  原告らは、第1準備書面で、「本件テキストの内容の誤り、不適切な点など、学校教育法21条違反については、おって詳述する。」(P15)としたが、本書面はその部分を補足するものである。

 

第2 本件テキスト内容の誤りや不適切な記述について

学校教育法第21条は、「教科用図書その他の教材で、有益適切なものは、これを使用することができる。」と定めている。この「教科用図書その他の教材」を補助教材と称している。

この「有益適切なもの」の判断基準については、「教育的見地からは、補助教材の内容が、教育基本法、学校教育法、学習指導要領等の法令の規定やその精神に合致したものでなければならず、・・・また、誤りや不正確なところの多いものは不適当」(元文部省初等中等教育局長鈴木勲『逐条学校教育法』学陽書房 P163 甲4号証、同『教育法規の理論と実際』教育開発研究所 P74 甲5号証)とされている。

また、京都市教育委員会も「教材の選定に当っては、次の事項を特に考慮する。(エ)表現が正確適切であること。」としている。(京都市教育委員会『京都市 学校事務の手びき』 P183−2 甲17号証)

  しかし、本件テキストには、歴史学研究により明らかにされた事実を無視した誤りや、根拠の明確でない恣意的な記述、相互に矛盾した記述など、教材としては不適切な点が多い。すなわち、「表現が正確適切」とはいえず、とても学校教育法が定める「有益適切なもの」とはいえない。

  たとえば、次の諸点である。

 

1 「1200年の歴史と伝統を誇る京都」(P3)

  本件テキストにおける門川大作教育長の「発刊の辞」では、「千二百年の歴史と伝統を誇る京都」(P3)としており、本文中にも「1200年の長い歴史」(P7)という記述がある。

これは、天皇が遷都した平安京以降の歴史のみを京都の歴史とみなす価値観を前提とした記述である。しかし、こうした天皇中心の価値観は今日ではもはや時代遅れとみなされている上に、本件テキストでも他方において、「平安京以前の京都」の章で、「京都の人々の歴史は発掘されたものから考えて、今から2〜3万年前までさかのぼります。」(P8)と記していることとも矛盾しており、「表現が正確適切」とは言えない。

 

2 「その当時、動物園のあたりをオオツノシカがのしのしと歩いていたのです。」(P8)

本件テキストでは、京都市動物園の地中から発見された足跡の遺跡について、本文中で最初は「オオツノシカの足跡と思われる」と推測を交えた記述であることを明確化しているが、それに続く部分では、上記のようにオオツノシカの足跡であると断定してしまっている。また、同じページに掲載された写真のキャプションでも、「京都市動物園の地中から発見されたオオツノシカの足跡」と断定している。

しかし、学術的には、この足跡は、偶蹄類のものだということが明らかにされているにとどまり、オオツノシカであるとは特定されておらず、本件テキストにおける断定的な記述は根拠がない。

この問題については、発掘調査にあたった京都市埋蔵文化財研究所が、「発掘された足跡の主は大型の鹿や牛の類だということになる。これに該当するこの時期の動物に、ヤベオオツノシカ・ヘラシカなどが化石として知られているが、特定はできない。」(京都市埋蔵文化財研究所・京都市考古資料館 発掘ニユース、甲18号証)、「確認できた15個の足跡は、全て二つに分かれた蹄を持つ大型の偶蹄類のものであるが、種までは特定できない。」(『平成元年度 京都市埋蔵文化財調査概要』京都市埋蔵文化財研究所、甲19号証)としているとおりである。本件テキストにおける「動物園のあたりをオオツノシカがのしのしと歩いていたのです。」という記述や、「京都市動物園の地中から発見されたオオツノシカの足跡」というキャプションは、教材として備えるべき正確さを明らかに欠いている。

なお、京都市埋蔵文化財研究所の関係者に照会したところによれば、京都市教委、京都新聞開発(株)は、本件テキストの作成にあたって、京都市埋蔵文化財研究所から、この足跡の遺跡の写真をはじめ、多くの写真を借用した。しかし、本件テキストでは、「提供」「写真協力」として埋蔵文化財研究所の名前をあげていない。

「義務教育諸学校教科用図書検定基準」(平成11年1月25日文部省告示第15号 甲11号証)においては、「引用,掲載された教材,写真,挿絵,統計資料その他の著作物は,信頼性のある適切なものが選ばれ,著作権法上必要な出所や著作者名その他必要に応じて出典,年次など学習上必要な事項が示されていること」と記されている。本件テキストは、「教科用図書」ではなく教材であるために上記の基準が明示的に適用されることはないが、内容的に判断して、学校教育法で定める「有効適切」という概念には出典の明示という項目が当然含まれていると解釈できるのであり、本件テキストのような写真の無断借用は許されることではない。

 
        「(弥生時代に―引用者注)自然の恵みに頼る生活から、自分の手で物をつくっ    て暮らすようになりました。」(P9)

     「自分の手でものをつくって暮らす」のは、縄文以前の旧石器時代から始まっており、この記述は間違いである。

本件テキストでも、この記述以前に、後期旧石器時代における石器や土器などについて触れており、そうした記述とも矛盾している。

 

4 「(鎌倉時代)京都は天皇のいる重要な都市でした。」(P20)

  鎌倉時代成立以後も、「天皇のいる」都市だという理由で、京都が重要視されたと本件テキストでは記している。しかし、このように記す根拠は歴史学上見当たらず、天皇がいる「都」であることをもっぱら重要視する歴史観を前提としたものである。

なお、京都市で使用している『中学社会 歴史的分野』(大阪書籍 2005年3月30日検定済、以下「中学教科書」という。甲20号証)では、鎌倉時代の京都について、「京都は、公家の政治の中心であるとともに、全国の経済の中心地でもありました。」(P55)と説明しており、京都の重要性を天皇の存在とは別のところに求めている。当時、京都が「天皇のいる」町だから重視されたと断定する根拠はない。

 

5 「天皇・皇族や将軍など身分の高い人」(P21)、「身分の低い山水河原者」(P84)

  本件テキストでは、京都の歴史を語る場合に重要な部落問題についていっさいふれていない一方で、このような身分による差別を固定・助長するような表現をしている。

  また、後述するように、本件テキストには「人権」という観点がほとんど無視されている。

 

6 「江戸時代、京都は『天皇のおひざもと』と呼ばれた」(P28)

  本件テキストでは、「江戸時代、江戸は『将軍のおひざもと』、商業都市として栄えた大阪は『天下の台所』、京都は『天皇のおひざもと』と呼ばれました。」(P28)と記述している。

  しかし、江戸時代に京都が「天皇のおひざもと」と呼ばれたことを示す典拠は歴史学上見当たらない上に、どのような歴史書においてもこのような指摘はなされてこなかった。

  かりに本件テキストの記述が、「江戸が『将軍のおひざもと』と呼ばれたのになぞらえて、京都を『天皇のおひざもと』と呼ぶこともできます」というように著者による解釈を交えた記述であることを明示したものであれば、必ずしも歴史的な事実ではないことが明瞭となるが、本件テキストの記述は京都が「天皇のおひざもと」と呼ばれたということを歴史的な事実であると思わせるような表現となっている点で正確さを欠く上に、児童に誤った歴史認識をもたらすものと評せざるを得ない。

なお、京都市の「中学教科書」(甲20号証)では、江戸時代の項(P102)で、「にぎわう三都」として、江戸が「将軍のおひざもと」、大阪が「天下の台所」と呼ばれたとは説明しているが、京都が「天皇のおひざもと」と呼ばれたというような記述はない。

 

7 「こうした人々の強い思いに各番組が応え、小学校をつくったのです。」(P34)

  本件テキストでは、「全国に先がけた京の小学校」として、次のように記している。「当時、京都の人々は、幕末維新の混乱に加え、明治時代になって都が東京へ移ったことで、京の町がさびれていくのではないかと心配していました。そこで子どもを教え育てることが、京の町の繁栄につながると考えました。こうした人々の強い思いに各番組が応え、小学校をつくったのです。」、「小学校を運営するための基本的なお金は『かまど金』と呼ばれ、番組内でかまどのあるすべての家が負担し・・・番組内の人々が協力して小学校を支えていたのです。」(P34)

  本記述において、小学校創立に際して番組の人々らの努力をもっぱら強調する一方、京都府がいわば「上から」小学校設立を進めた事実にいっさい言及していないのは、偏った記述と言わざるを得ない。

  番組小学校設立にかかわる歴史研究によれば、当時、「京都府は町組の改正とともに、市政『御一新』の大事業として、小学校創設の勧奨を行った」(京都市編『京都の歴史7』P503)が、「大多数の町民はとまどいを感じるばかり」(同)で、「小学校の設立には否定的な態度をとる町が多かった」(辻ミチ子『転生の都市・京都』P115)のを、後の京都府知事、槇村正直らが強力に事業をすすめていったとされる。学校建設の費用も京都府が下渡ししたし、また、「京都府は、・・・新しい学校教育の確立にも努力し、明治4年には、『小学課業表』も作成」(京都市教育委員会・京都市学校歴史博物館編『京都学校物語』P50)している。

おいてるあるりによれば都市埋蔵文化財研究所が、「発掘された足跡維持費の「かまど金」制度も、「(京都府は)従来会議所の入費を軒別に分賦した仕法をうけ、学校永続のために『半期一分の軒金』を定めていた。ところが市民は入費のかさむことを恐れ、またこれを官のおしつけとうけとり、『頗ル之レヲ厭苦スル者』が多かった。」(倉沢剛『小学校の歴史4』P91)、「かまど別出金だけではとうていやっていけないことははじめから分かっていた。それでもかまど金を強調したのは、軒役による出金では、・・・分限者への配慮と、貧富をとわず全町民を基盤として番組小学校を建営しようとする、府の方針があったからである。かまど別金でまかないきれない経費は軒役にあてられることも多かった。」(辻前掲書P119)とも指摘されており、本件テキストの記述は一面的である。「かまど金」は、倉沢前掲書P116にもあるように、貧しい家には課しておらず、本件テキストにおける「すべての家が負担」していたという記述は誤りである。

  なお、本件テキストにおいて「日本最初の小学校は、・・・上京第27番小学校(現在の御池中)とされていますが、下京第33番小学校(現在の弥栄中)だとする説もあります。」(P34)としていながら、末尾の年表では、「日本ではじめての小学校である柳池小学校」と断定しているのは一貫していない上に、「御池中」と「柳池小」と名称が混乱しているもの不適切である。

また、「日本最初の小学校」という表現は正確ではない。「日本最初の学区制小学校」とすべきである。京都市教育委員会は、京都市学校歴史博物館の小学生用の配布物でも、「日本最初の学区制小学校」と記しており、テキストの記述とは矛盾している。そもそも、当時の番組小学校は相次いで発足しているし、開業式前に授業を始めた学校もあるので、どこが最初だったかということを確定はできない。京都市小学校社会科教育研究会が編集し、京都市教育委員会が編集協力した『わたしたちの京都 3・4年上』(乙第16号証1)の年表でも、明治2年(1869年)に「柳池校ができた。」としているだけで、「日本最初」というような表現はない。

 

8 「京の蹴鞠はサッカーの元祖」「日本のサッカーのルーツは、下鴨神社で行われている蹴鞠です。」(P125)

  サッカーというスポーツが現在のような形態を整えたのは19世紀イギリスにおいてのことであり、日本には19世紀末お雇いイギリス人教師を通じて導入され、帝国大学・旧制高等学校のようなエリート教育を中心に普及した。「京の蹴鞠」がサッカーというスポーツの「元祖」や「ルーツ」であるという記述は、全く根拠のない決めつけである。

 

9 「朝廷への献上品として、中国大陸をはじめ、全国各地からさまざまな野菜や種が持ち込まれました。」(P128)

  本件テキストの表現では、平安時代に中国大陸からも「朝廷への献上品」として野菜などが送られたと理解される。しかし、こうした事実は歴史研究において認められていない上に、「献上」という言葉が政治的な上下関係の秩序にかかわる表現であること、および当時の東アジアにおける中国中心の国際関係を考えるならば、およそありえないことである。

 

10 「『もったいない』の原点は着物」(P144)

「もったいない」という言葉は着物から出たという根拠は、服飾史などの研究を通覧してもどこにも根拠は見られない。「京の蹴鞠はサッカーの元祖」という記述と同様、根拠のない決めつけと評せざるをえない(この点については、昨年11月の基礎コースの検定試験でも、「着物には流行がないので親子何代も着られるところから出た言葉」として、「もったいない」を正答とした問題が出されているが、根拠のない決めつけに基づいた叙述を正当としている点で、大きな問題をはらむ)。

また、「着物には流行がない」(P144)という記述について、今日の服飾史研究では着物の「流行」が明らかにされているので、この記述も間違いである。

 

11 明治天皇は、「16歳で天皇になりました。」(P168)

  本件テキストでは、「京にゆかりの歴史上の人物」の一人として明治天皇をあげている。

その説明文で、「(明治天皇は)1867年、16歳で天皇になりました。」(P168)としているが、明治天皇は1852年11月3日の生まれで、践祚(即位)が1867年1月30日であったから、天皇になったのは、満14歳のときであった。16歳というのは「数え年」の年齢であるとしても、教材の記載として不適切である。

 

 

第3 市内の小中学校で使われている社会・歴史教科書との違いについて

本件テキストは、当初、京都市の公立小学校4〜6年生全員に配布され、小学5〜6年生を対象として検定試験が行われた。その後、昨年12月には、市内の公立中学校1〜2年生全員にも配布している。

そこで、現在、市内の小・中学校で使われている教科書と内容を比較してみたい。

現在、社会や歴史の教科書として、市内の小学校6年生は、『新編 新しい社会 6上』(甲21号証)(東京書籍 2004年3月10日検定済、以下「小学教科書」という。)、中学校では、「中学教科書」(甲20号証)を使用している。

しかし、本件テキストの内容は、これらの京都市で使用している歴史・社会教科書とも相違するところが多く、子どもたちの混乱が懸念される。補助教材は、「あくまでも教科書を補充し、これと一体となって、教育課程を適切に実施するために使用されるもの」(前掲 鈴木勲『教育法規の理論と実際』P74)であり、教科書とあまりに大きな違いのあるものを補助教材として使用することは認められない。

本件テキストと、市内の小・中学校で使われている教科書との相違は、下記のような点である(なお、詳細については、別紙「『ジュニア日本文化検定』テキストと京都市の小・中学校で使われている歴史教科書、「つくる会」歴史教科書の比較検討表」を参照されたい)。

 

 1 平安時代は「天皇中心の国づくりめざし」「王朝文化」と言えるのか?

  本件テキストは、平安時代のタイトルを「天皇中心の国づくりめざし」(P12)とし、本文においても、「桓武天皇は、・・・天皇中心の国をつくるために都を移そう(遷都)と考えました。」と説明している。しかし、京都市の「小学教科書」、「中学教科書」とも、平安時代について、「天皇中心の国づくり」というような記述はない。

  桓武天皇が都を移した理由としては、平城京の下水処理問題や周辺の森林破壊による自然災害の多発なども指摘されており、「天皇中心の国づくり」という点だけを強調する視点は、戦前の皇国史観への逆戻りを示唆するものである。

  また、本件テキストは、平安時代の文化を「王朝文化」(P15)という表現をしているが、「小学教科書」では、「日本風の文化が生まれる。」(P35)、「中学校教科書では、「国風文化」(P41)としており、「王朝文化」という言葉は使われていない。

2 信長は「革命児」だったのか?

    本件テキストは、織田信長について、「抵抗する勢力を力でねじ伏せた革命児です。」(P25)と説明している。このように信長を「革命児」と評価したような表現は、京都市の「小学教科書」、「中学教科書」にはない。

    この点については、「新しい歴史教科書をつくる会」(以下、「つくる会」と称す。)の歴史教科書、『新しい歴史教科書』(扶桑社 甲25号証、以下「『つくる会』教科書」と称す。)が、「信長は徹底した破壊者で、同時に革新者であった。」(2001年版)、「旧来の政治勢力や社会制度を打破」「新しいものを取り入れた武将」(2005年版)などと評価しているのと類似している。

 

3 秀吉の朝鮮侵略や京都・東山の「耳塚」にいっさい触れていないのは何故か?

    本件テキストは、秀吉の安土桃山時代のタイトルを、「豪華けんらん、安土桃山文化」(P25)とし、内容は、派手な「北野大茶の湯」「黄金の茶屋」「醍醐の花見」「御土居」などの説明だけで終っている。

    しかし、秀吉に関しては、京都市の小・中学校の教科書は、必ず朝鮮侵略に触れている。

「小学教科書」は、年表で2度の朝鮮侵略をあげ(P52)、他でも「この(朝鮮)侵略で、朝鮮の国土は破かいされ、多くの人々が殺害されたり日本へ連れ去られたりしました。」(P57)と記述している。

また、「中学教科書」でも、「秀吉の朝鮮への侵略」の項で、朝鮮侵略について詳しく説明し、「2度にわたる戦いは、朝鮮の民衆に多くの犠牲者を出し、田畑が荒れ、ききんが続きました。」(P91)と記述している。

また、本件テキストでは多くの史跡を紹介しているが、秀吉の朝鮮侵略の際、虐殺した朝鮮人の鼻や首を持ち帰って埋めた京都市東山区の耳塚については、いっさい触れていない。

「中学教科書」(2001年版)は、耳塚の写真を載せ、「朝鮮侵略の末期、秀吉は、手がらを敵の鼻や耳の数で示すことを命じました。耳塚は、送られてきた数万もの朝鮮の人々の鼻や耳を埋めたあとといわれています。」(P69)と記している。また、同書は、朝鮮侵略に疑問をもち、朝鮮側についた「沙也可」の逸話なども紹介している。

    なお、秀吉については、本件テキストでは、「天下統一」としているが、京都市の「小学教科書」「中学教科書」では、「全国統一」という用語が使われている。

  

  4 為政者の視点からのみで、民衆の動きが見られない歴史記述

    本件テキストは、歴史を為政者の視点からのみ描き、民衆の動きについてはほとんど触れていない。

    たとえば、幕末についての記述は、時代の動きを「佐幕派、尊王派」「新政府軍、旧幕府軍」の争いとしてしか描いていない。(P32)

    しかし、京都市の「小学教科書」は、「新しい時代への動き」として、渋染一揆や全国各地の百姓一揆、打ちこわしなどについて章を割いている。また、「役人を批判し」「生活に苦しむ町の人々を救おうとした」(P78)大塩平八郎を紹介している。

 「中学教科書」は、百姓一揆や打ちこわしなどの動きをさらに詳しく記述している。「江戸幕府を終らせたのは、どのような動きだったのだろう。」とし、「世直し」や、各地の「ええじゃないか」などの民衆の動きについて説明している。

 また、室町時代についても、「中学校教科書」では、京都の土一揆、山城国一揆、一向一揆などについて詳しく説明し(P66)、さらに、反乱や、「下の地位の者が、上の地位の者を倒したりする下克上」などについても触れているが、本件テキストは、このような一揆や反乱、下克上など、時の権力に抵抗する人々の動きについてはいっさい触れていない。

 逆に、本件テキストでは、上人に忠誠を誓ったという、清水寺の「忠僕茶屋」「舌切り茶屋」の逸話などをわざわざ掲載している。その歴史観は、戦後における歴史学・歴史教育の成果を無視するものであり、戦前の皇国史観への回帰を思わせるものである。

 

  5 新撰組とは何だったのか?

本件テキストでは、「幕府は京都を守るため、・・・たが、京都の治安はどんどん悪くなっていきました。このため、幕府は、・・・それが後に『新撰組』となりました。」(P32)と記述している。しかし、新撰組の前身である浪士組が、京都の治安を守ることを目的として設置された、と断定できる根拠は乏しく、複雑な幕末政治情勢との関係で検討される必要がある。

また、近藤勇の大きな写真を掲載している点も疑問である。

こうした記述は昨今の新撰組ブーム、観光ブームに便乗したものと思われるが、新撰組や近藤勇については、普通、教科書ではほとんど触れていない。京都市の「小学教科書」、「中学教科書」でも、新撰組や近藤勇についての記述はない。

 

6 明治天皇の描き方の問題

  先にも述べたように、本件テキストでは、「京にゆかりの歴史上の人物」の一人として明治天皇をあげ、写真入りで紹介している。(P168) しかし、京都市の「小学教科書」、「中学教科書」には明治天皇の写真はない。

  また、本件テキストでは、「(明治天皇は)『五か条の御誓文』を出し、新しい国づくりの基本方針を定め、近代国家の基礎を築きました。」と説明している。

しかし、京都市の「小学教科書」では、「新政府は、明治天皇の名で政治の方針(5か条の御誓文)を定め、・・・新しい社会のしくみをつくりました。」(P82)と記述しているし、木戸考允が「5か条の御誓文を作成した」とも記している。(P82)

また、「中学教科書」でも、「新政府は、明治天皇が公家・大名たちを率いて神に誓う形で5か条の御誓文を出し、これによって、・・・世論に従って新しい政治を行うという、新政府の方針を明らかにしました。」(P138)と説明している。あくまでも、「新政府」が主語であって、明治天皇が「近代国家の基礎を築いた」とはしていない。

なお、扶桑社の「新しい歴史教科書」も、明治天皇の写真を掲載し、さらに、明治天皇を主語として「明治天皇は、新しい国づくりの大方針を明らかにする5か条の御誓文を発した。」と記載しており、本件テキストと類似している。そのことにも、本件テキストが、教育委員会が関与して編纂するのにふさわしい公正中立なものではなく、偏った歴史観に基づいていることが示されている。

 

 

7 部落問題にいっさい触れていないのは何故か?

    本件テキストには、部落問題や人権に関する記述はほとんどない。末尾の年表には、「1922年 全国水平社が京都で結成される。」(P165)と1行だけの記載はあるが、本文中には何の説明もない。(なお、年表は検定の対象からは外されている。)

    これ対して、京都市の「小学教科書」「中学教科書」は、部落問題に多くのページをさいている。

    たとえば「小学教科書」では、室町時代から「身分の上で差別された人たち」が銀閣寺などの庭園をつくったり、芸能で活躍したことに触れている。(P46) また、江戸時代には「きびしく差別されてきた身分の人々」(P65)や、渋染一揆(P78)などについて詳しく述べている。さらに、1871年の解放令のことや、身分制度が改められたのちも、日常生活での差別が新しい形で残されたことや、人々が自らの力で差別をなくす運動に立ち上がっていったことなどを説明している。全国水平社についても、16歳の少年の活躍などにも言及して、詳しく説明している。(P99)

    「中学教科書」になると、部落問題の歴史や、解放令以後の部落問題、被差別部落の人々による差別をなくす運動などについてさらに詳しく説明している。特に、全国水平社の綱領を、「日本発の『人権宣言』」と位置づけ、評価している。(P187)

    教科書におけるこうした叙述は、戦後における歴史教育・人権教育の成果に基づくものであるが、本件テキストはこうした成果を無視するものと評せざるをえない。

 

8 性別に基づく固定的な役割分担意識に基づいた女性の描き方

本件テキストには、「着物を着ると、女の子はしぐさがやさしくなり、男の子もとても礼儀正しくなります。」(P144)というように、性別にもとづく固定観念にとらわれた記述がある。

本件テキストには女性はほとんど出てこず、末尾の「京にゆかりの歴史上の人物」には、33名のうち女性はわずか2名が取り上げられるにとどまる。また、わずかに登場する女性も、「浴衣姿で食事を楽しむ若い女性ら」(P55)、「先斗町」「西陣織会館」(P66)、「茶道の作法を学ぶ児童ら」(P95),「芸妓さん、舞子さんがあでやかな舞を見せる『都をどり』」(P100),「晴れ着で初詣する参拝客」(P144),「京都市の成人式。着物姿の女性が多く見られます。」(P144)など、ほとんどが着物姿のものばかりである。さらに、「小町を思って『百夜通い』」(P79)といった逸話など、女性は、ほとんどの場合、男性の目から鑑賞される対象=「見られる性」として描かれているにすぎない。

一方、京都市の「中学教科書」における女性の描き方は、本件テキストとは異なる。

たとえば、鎌倉・室町時代の女性について、「中世の女性たちは、近世・近代社会の女性と比べて自由であり、家のなかでは一定の地位が確立されていた。」、「この時代の女性は結婚しても実家の姓を名のり、親の領地を相続する権利を持っていました。」、「この時代の女性は男性に近い地位にあった。」(P72)などと説明している。

    また、「平等な社会をめざして」の「女性の自立と男女の平等をめざして」の項では、「(江戸時代)町人や小作農民の間では、男女の関係や対等に近かった」が、明治に入って、女性の自立が抑えられていった経過などを詳しく説明している。(P186)

 

また、本件テキストのような女性の描き方は、男女共同参画社会基本法の趣旨や、その後、2000年12月12日に閣議決定された、次のような「男女共同参画基本計画」に反するものである。

「男女共同参画の実現の大きな障害の一つは、人々の意識の中に長い時間をかけて形作られてきた性別に基づく固定的な役割分担意識である。このような意識は時代と共に変わりつつあるものの、国民個々の生活には未だに根強く残っていることから、国民すべてに男女平等及び人権尊重の意識を深く根づかせるための広報・啓発活動を積極的に展開する。」(甲22号証)

「性別に基づく固定観念にとらわれない、男女の多様なイメージを社会に浸透させるため、まず国の行政機関自らが、男女の描写方法に関するガイドラインを策定するなど率先して取組を行う。」(甲22号証)

「男女共同参画社会を実現するためには、国民一人一人が男女共同参画についての意識や自立の意識を有することが不可欠である。このような意識の涵養のために、学校、家庭、地域における教育・学習の果たす役割は極めて重要である。性別に基づく固定的な役割分担意識を是正し、人権尊重を基盤にした男女平等観の形成を促進するため、学校、家庭、地域など社会のあらゆる分野において、男女平等を推進する教育・学習の充実を図る。」(甲22号証)

「学校教育全体を通じて、人権の尊重、男女の平等、相互理解・協力についての指導の充実を図るとともに、教科書などの教材においても適切な配慮がなされるよう留意する。」(甲22号証)

その後、政府は、「男女共同参画の視点からの公的広報の手引」(2003年3月 甲23号証)を定めた。そこでは、「性別によってイメージを固定化した表現になっていませんか?」、「男女を対等な関係で描いていますか?」「男女で異なった表現を使っていませんか?」、「女性をむやみに“アイキャッチャー”としていませんか?」「女性を飾り物として使っていませんか?」などの注意を喚起している。

京都市においても、「男女自立と平等を拒む意識・慣行の見直し」として、「固定的な役割分担等を反映した制度又は慣行が、男女の社会における活動の選択に影響を及ぼさないようにするため、男女共同参画の理念やジェンダーの視点について、わかりやすい広報・啓発をすすめる必要があります。」、「性別に基づく固定観念にとらわれない表現を推進するため、市政刊行物におけるガイドラインを作成するとともに、報道機関等への周知を図ります。」(京都市『第3次京都市女性行動計画 きょうと男女共同参画推進プラン改訂版』2007年3月、P26 甲24号証)と定めている。

 

本件テキストでは、すでに述べたように、「浴衣姿で食事を楽しむ若い女性ら」(P55)など女性をむやみに“アイキャッチャー”とする傾向が見られる。このような女性の記述方法は、こうした政府の基本方針だけではなく、京都市の男女共同参画推進プランにも抵触することは明らかである。

 

  9 戦争についての記述がいっさいないのは何故か?

    京都市の「小学教科書」「中学教科書」は、日清、日露戦争、そして第1次、第2次世界大戦などについて、もちろん詳しく説明している。

ところが、本件テキストには、こうした明治以降の連続する戦争の記述は全くない。ただ、「日本が焼け野原となった第2次世界大戦のとき、京都はほとんど戦争の被害を受けませんでした。」(P7)と記述するにとどまる。京都でも、当時、馬町や西陣などに空襲があって多くの人が死んでいるし、京都は、米軍が原爆投下の対象都市として温存したから空襲が少なかったともいわれている。

それにしても、何故、第2次世界大戦の記述がこの1行だけ済まされるのであろうか?

本件検定の元になった「京都検定」(京都商工会議所主催)のテキストにおいて、伏見の陸軍第16師団司令部などの戦争史跡を紹介していることと比較しても、本件テキストが、近代の戦争について触れず、平和の問題をいっさい無視しているのは疑問である。

 

 

第4 本件テキストの背景にある歴史観について

   以上、本件テキストの内容の誤りや不適切な記述、そして、現在、京都市の小・中学校で使われている教科書との齟齬等について詳しく説明してきた。従って、本件テキストは、学校での教材として最低限備えるべき「正確」な表現が用いられていない上に、政府および京都市の男女共同参画推進プランにも抵触するなど教材として「有益適切」なものとはいえず、学校教育法21条に違反するものである。

 

   最後に、こうした間違いや不適切な記述などに共通する、本件テキストの歴史観についてまとめておきたい。

   本件テキストの歴史観は次のようにまとめられる。

   1 戦前の皇国史観を思わせる天皇中心史観

   2 民衆史の欠落

   3 「平和・人権」問題の無視

   4 いっさい語られない「負の歴史」

   5 断片的な「うんちく話」的知識の羅列・・・歴史を学ぶということとは?

 

  別紙の「『ジュニア日本文化検定』テキストと京都市の小・中学校で使われている歴史教科書、「つくる会」歴史教科書の比較検討表」でも分かるように、こうした本件テキストの特徴は、「つくる会」の歴史教科書、『新しい歴史教科書』(扶桑社 甲25号証)と類似している。

  それどころか、本件テキストは、「天皇中心の国づくりをめざし」、「京都は天皇のいる重要な都市でした」、「一揆や下克上の無視」、「京都は天皇のおひざもと」など、「つくる会」の歴史教科書より以上に、天皇中心の歴史観に基づく記述が多い。

  2005年当時、京都市教育委員会でも、2006年度から使用する中学校教科書の採択手続きがすすめられていた。そこでは、「つくる会」の歴史、公民教科書は、天皇制的伝統の復古を願い、人権や平和、国民主権に価値を見出さず、偏狭なナショナリズムに囚われているとして、市民、学者らから強い抗議行動が起こっていた。そうした経過の中で、京都市教育委員会も、「つくる会」の教科書の採択を見送ったのである。

  ところが、京都市教育委員会は、ちょうど同じ時期に、「つくる会」の歴史教科書と類似した歴史観にもとづいた本件テキストを作成していたのである。しかも、本件事業の推進プロジェクトの委員長に就任したのは、「つくる会」の理事であった市田ひろみ氏である。

  市田ひろみ氏は、「つくる会」の冊子に顔写真入りで次のような談話を載せている。

  「『教科書の改善にみなさまのお力を』 どうして日本人が自分の国の歴史を悪く書くのでしょうか? 自分の生まれ育った国をどうしてそこまでおとしめる必要があるのでしょうか。一体誰のための歴史教科書なのでしょうか。純粋な子供たちの心をこれ以上悲しませないでほしい。自分の国に誇りを持てるようにしてあげてほしい。安心して読める教科書がほしいですね。」(新しい歴史教科書をつくる会『大人が知らない こどもの教科書』 甲26号証)

  このような「つくる会」の主張が、ほとんどそのまま持ち込まれたのが本件テキストである。教科書採択をめぐる公正な手続きにおいて排除された教科書と類似した内容が、補助教材であるからという理由で用いられるのは不合理である。

しかも、本件テキストについては、各学校・教員ごとの教材選択の自主性が保障されておらず、強制的かつ一方的に各学校に配布されているという問題がある。もしもこのようなことが許されるならば、教科書採択をめぐる手続きは実質的になし崩しとなり、市教委は、教材であるからという理由で、歴史学研究・歴史教育の成果を無視した、特定の偏った歴史観を子どもに押しつけることが可能になってしまう。 

  原告が、本件検定事業は、「子どもたちへの特定の歴史観の強制は、憲法19条に違反する。」(訴状P17)としているのは、この点にもとづくものである。

 

 

第5 歴史学者グループの抗議・申入れについて

  以上に述べてきたような本件テキストの問題点は、京都市在住、あるいは京都市の大学に勤務する歴史研究者によっても指摘され、次のような申し入れが行われてきた。

・2006年11月14日の歴史学者14名の申し入れ書並びに質問書(甲27号証)

・2006年12月12日の歴史学者2名の申し入れ書並びに質問書(甲28号証)

・2007年8月23日の歴史学者4名の申し入れ書(甲29号証)

  このように度重なる申し入れがなされてきたにもかかわらず、被告はこれらの申し入れに対して正式な回答を行っていないばかりか、歴史学者の指摘した明らかな誤りについても訂正を行ってきていない。公教育で用いる教材の作成に関与した者の対応としては、あまりにも無責任と表せざるをえない。

 

 

 

 

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