200629

陳 述 書

請求人 駒込 武

 

京都市および京都市教育委員会による「ジュニア日本文化検定」事業は、公教育における公共性、公平性、中立性という原則に背馳するものであり、この事業への公金支出は不当なものです。

以下、そのように考える根拠について述べます。

 今日、社会生活のさまざまな局面で「規制緩和」が進んでおり、学校教育に関しても、公立学校の管理運営の一部を民間に委託する可能性が中央教育審議会などで検討されています。しかし、その場合でも、地方公共団体が公費をもって設置する公立学校は、教育基本法第6条に定める「公の性質」をもつもの、すなわち、「公教育」を構成するものとして、公共性、公平性、中立性の原則にしたがって管理運営されるべきことが、議論の前提とされています(たとえば、中央教育審議会初等中等教育分科会教育行政部会で2003916日に配布されたメモでは、次のように記されている。「公立学校の管理運営のあり方は、各学校段階において教育の目的が適切に果たされ、公教育の理念である公共性、公平性、中立性が損なわれることがないよう十分留意し、教育を受ける子どもの立場から、学校運営の安定性・継続性や教育の質が確保されるよう、教育の特質を踏まえた様々な観点からの検討が必要」)。

 公教育における公共性、公平性、中立性の原則は、教科書の検定や採択のシステムでも具体化されています。文部省(当時)の定めた「義務教育諸学校教科用図書検定基準」(1999125日文部省告示第15号)には、たとえば次のような項目があります。

「政治や宗教の扱いは公正であり,特定の政党や宗派又はその主義や信条に偏っていたり,それらを非難していたりするところはないこと。」

「図書の内容に,特定の営利企業,商品などの宣伝や非難になるおそれのあるところはないこと。」

 これらの項目は、公教育の公共性、公平性、中立性原則の具体化であり、公教育が、社会生活一般における市場原理とは異なる、独自の原理を備えるべきことを示しています。

公教育において独自の原理が必要とされる理由として、三つのことが考えられます。なお、上に掲げた「義務教育諸学校教科用図書検定基準」は教科書を対象としたものであり、教科書以外の教材としての「ジュニア日本文化検定」のテキストはこの「検定基準」による規制の対象とはなりませんが、後述のようにこの教材は事実上教科書に相似した地位を与えられた「準教科書」ともいうべき性格を持つ上に、たとえ教材ではあっても公教育の場で組織的に用いられるものである以上は、公教育をめぐる原則が当然適用されるべきものと考えます。

第一に、税金を負担する市民の中での利害関係の多様さということです。私たちの社会生活では特定の政党や宗派、あるいは営利企業がそれぞれの影響力を伸張し、支持母体を拡大しようと絶えず競争しています。そのために、宣伝ポスターを貼ったり、戸別訪問を行ったり、テレビ・新聞に広告を出したりしています。私たち市民は、小学校や中学校に通う子どもたちを含めて、絶えずその影響力にさらされています。つまり、私たちは、常に宣伝に接しています。しかし、だからといって、公教育の場でも特定の政党・宗派・営利企業の宣伝が行われてもよいということにはなりません。公教育の財源たる公費は主に税収により構成されるものであり、税金を負担する市民の中に特定の政党・宗派・営利企業との利害関係がきわめて多様な形で存在します。だからこそ、公教育は中立的であらねばならず、特定の政党・宗派・営利企業の宣伝にあたる行為が禁じられていると考えるべきです。

第二に、公教育における強制力の大きさという問題があります。たとえば、テレビ・新聞などのメディアにおける広告に関しては、情報の受け手の側で「テレビを消す」「新聞を見ないで捨てる」などその影響力の大きさを自ら限定することが可能です。これに対して、学校教育では、教師を媒介として、情報の受け手としての児童生徒に対する強制力がきわめて大きく働きます。しかも、今回の「ジュニア日本文化検定」では、テキストの内容に関する試験まで行われる予定ですので、強制力はいっそう強いものとなります。したがって、テレビや新聞における広告のように、自分の意に沿わないものであれば「やり過ごす」という対応は困難です。公教育の場で用いられるテキストに特定の政党・宗派・営利企業の宣伝が載せられた場合、一般のテレビ・新聞における広告とは異なる宣伝効果を持ち、公教育そのものが自らの公共性を放棄して私的な利害に奉仕することとなります。

第三に、公教育の中核をなす義務教育段階の児童・生徒の発達段階に応じた教育の適切さという問題があります。義務教育段階の児童・生徒は、社会生活の基本的な仕組みに対する認識を身につけると同時に、それぞれの局面でどのような行動をとることが望ましいのかということについての判断力の養成が求められます。そのためには、学校の外で特定の政党・宗派・営利企業の影響力にたえずさらされている子どもたちが、学校という場ではむしろその影響力から一定の距離を保ちながら、政党・宗派・営利企業の活動についてその適切さを判断できるような教材が与えられる必要があります。すなわち、義務教育段階での学校には、社会生活一般からの有形・無形の影響力に対する「緩衝地帯」のような役割が求められています。子どもたちは、その「緩衝地帯」においてこそ、どのような政党や宗派や企業活動のあり方が望ましいのか、自らが選挙権者や消費者としてどのようにかかわるべきかという判断力を身につけることができるのです。逆に、宣伝という行為は、そうした判断力の養成それ自体ではなく、特定の判断に導くことを優先する点で、こうした教育活動とは相反するものです。したがって、たとえば大学で教科書として用いるテキストにおいて宣伝が掲載されることについては考慮の余地があるとしても、義務教育段階の学校でこうした宣伝を掲載することは、教育的見地からも大きな問題をはらんでいます。

以上、公教育の公共性、公正性、中立性が求められる根拠について述べてきましたが、北上田毅氏による陳述書に詳細に述べられているように、今回「ジュニア日本文化検定」のために作成されたテキストは、特定の営利企業の広告を掲載しているばかりか、さらに本文でも一部の営利企業の関係者を賞賛しています。すなわち、このテキストは、公教育の原則に背馳する不当なものであり、「義務教育諸学校教科用図書検定基準」に照らすならば違法なものです。

もちろん、「ジュニア日本文化検定」のために作成されたテキストは、教科書ではなく、教材です。したがって、法的に「義務教育諸学校教科用図書検定基準」の対象となるわけではありません。しかし、教科書では許されないことが教材ならば許されるというのは、どのような場合なのか、考えてみる必要があります。「地方教育行政の組織及び運営に関する法律」では、教材の使用について「教育委員会は、学校における教科書以外の教材の使用について、あらかじめ、教育委員会に届け出させ、又は教育委員会の承認を受けさせることとする定を設けるものとする。」(第33条第2項)と定めています。

この条文が含意しているのは、教育委員会の役割は教材を作成することではなく、教材の届け出を受理、または承認することだということです。特定の教材を採用するか否かは、各学校(校長および教職員集団)の判断に委ねられるべきであるという前提が、そこには存在します。そして、教科書であれば許されないような内容、また、教科書と整合しないような内容が、もしも教材に記されている場合には各学校の判断で淘汰されるという仕組みが想定されているからこそ、教材の作成と使用において、教科書の場合には認められない自由が認められていると考えることができます。

今回の「ジュニア日本文化検定」のためのテキストは、まず京都市教育委員会が作成に関与した点で不適切です。教育委員会が作成に関与することは、教材の届け出を受理する、場合によっては公教育の公共性・公正性・中立性という原則に照らして教材を承認するという判断の役割を放棄するということだからです。さらに、ここで指摘しておきたいことは、東京都教育庁が、「教科書採択及び教材選定の公正さ」を確保するために、教科書採択の補助業務や教材選定にかかわる権限をもつ校長・教頭や、教育委員会事務局職員が教材作成にかかわることを禁じた「ガイドライン」を定めていることです(東京都教育庁「教科書・教材等の作成に関するガイドライン」20031218日)。この「ガイドライン」に照らすならば、教育委員会が当事者として、校長・教頭などの協力も仰ぎながら教材を作成するという今回の試みは、明らかに公正さを欠くものと言えます。

教材作成の主体についてこのような問題をはらんでいる上に、今回のテキストは、京都市内の全小学校の4年生〜6年生の子どもたち全員に無償で配布されています。すなわち、教科書と同様に、無償措置を背景として実質的に使用を義務づけられた教材であり、各学校において使用の可否を判断する余地は失われています。このように実質的に教科書に等しい地位が与えられている以上、内容的にも教科書に適用される基準が準用されると判断すべきです。そして、北上田毅氏の陳述書に指摘したように、このテキストは、教科書では許されないような記述や教科書と矛盾するような記述に満ちており、公教育に求められる「公の性質」を明らかに逸脱しています。

以上に述べてきた諸点に鑑みて、京都市・市教委による「ジュニア日本文化検定」事業への公金の支出は、公共性・公正性・中立性を欠く違法・不当な行為であり、損害賠償を要求します。

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